日本の刑事司法はまず、とにかく結果ありきである。結果ありきなので刑事手続に一度でも入ると言うことは対象となる人物を有罪にしなければいけない。今僕はこの文章を書きながら自分でも説明するのに混乱してしまいそうだ。しかし、なのだ。

「検察は手柄を作るために程度の良い事件を見つける。そしてその事件の犯人を定め、シナリオを書く。現実は捜査機関のシナリオに沿わなければならない。」

検察は自らのシナリオの構成の甘さに頭を悩ませたのかもしれない。シナリオと現実があまりにも違ってしまったからだ。山岸氏を逮捕、拘禁、周囲の人々に山岸氏の逮捕をチラつかせ優位な証言を取る。そして山岸氏の自白を取る。その手順のはずが、大いなる誤算と山岸氏の忍耐力により阻まれてしまった。

焦った検事は山岸氏の元部下に対し虚偽の供述を迫り、机を叩いてそれを強要する。そして、裁判所には被告の保釈を却下するように迫るのだ。

検察は、事件を公平な立場で客観的に取り扱い、社会正義のために行動する機関のはずなのだが、権力の暴走や内部の出世争いからくる手柄の競い合いにより、私利私欲になっていると指摘され始めている。もちろん全てではなく一部だと信じたいが、「結果ありき」という手法はすでに体質的なものなのだろう。

僕は検察と話した時に、まるで彼らは自分自身が裁判長であるかのような発言を耳にしたことがある。まるで検察こそが社会正義そのものであると言いたげだったのだ。であれば、裁判所は何のために存在するのであろうか。

罪証隠滅

僕が今回、一番言いたいことは罪証隠滅である。逮捕・勾留とは罪証隠滅の疑いがかけられた者に対する制限である。僕は罪証隠滅の疑いがあり226日の勾留にあったし、山岸氏もそうなのである。山岸氏は無罪が確定しており、不正捜査について問題提起をし、担当していた検察の責任を追求している。

検察の取調べはすべてビデオで録画されており、プレサンス事件でもあらゆる取調べが記録されているのであるが、なんと、検察はその記録の提出を拒んでいるのである。

この、記録の提出を拒むことを罪証隠滅と呼ぶべきなのではないか?罪証隠滅は被告・被疑者が行うものだと定義されているのかもしれない。が、僕から言わせれば捜査機関の罪証隠滅のおそれを考慮するべきなのである。被疑者被告が一方的に拘束されている間に、データをはじめとするあらゆる記憶は鮮度を失い、効力を失い、行方もわからなくなってしまうのだ。検察は逮捕時に強制捜査などにより押収しているのであるが、被疑者は押収物にアクセスすることができない。

これでは公平な裁判はできると到底思えない、と言うのが僕の主張だ。

僕のケースだと、検察が僕の罪証隠滅の可能性を主張し保釈を却下するようにしていたのだが、僕が勾留されている間にサブスクリプション払いが止まってデータの大半が失われてしまった。僕は自分自身の潔白を部分的でも主張する機会を勾留される時間と共に失わなければならなかった。これを検察による使役的な罪証隠滅だと主張したい。つまり、捜査機関も罪証隠滅の可能性があるという事である。

人質司法とは、公平な裁判を実現することを目的としてはおらず、事実の正しい争いを許さず、速やかな結審のみを求める裁判の本質的な機能を著しく損なう嘆かわしいものなのだ。

プレサンス事件での検察側への責任追求は全世界の方に注目していただきたい。検察自身が現在、録音録画を提出せず抵抗し続けているその行為そのものが、罪証隠滅なのである。

もう、捜査機関も罪証隠滅を行う疑いが存在するかどうかの議論をする必要はない。つまり、公平な裁判のために、被疑者は保釈されなければならない。そもそも、無罪推定なのだから当然なのである。

なぜ、勾留し続けるのか?

簡単だ。逮捕・勾留は日本では懲罰なのだ。むしろ、世間の人々も懲罰だと思っている。しかし、それは明らかに間違いなのだ。判決が出る前に懲罰が下されてはいけない。

人相が悪そうだから逮捕で良い、なんかお金持ちそうだから、気に食わないから、自由を奪って勾留するのが当然だと世間も考えてしまっている。これは日本全体が人権に関する感覚がとても薄いからである。人権を革命などで勝ち得ていないせいなのか、お上から与えてもらうものだと勘違いしているので、権力がやることを監視しようという発想はなく、お上として崇め従おうとしているのかもしれない。

山岸氏の忍耐強さと検察追求という新たなる戦いは国民の目を覚ますことができるのか?僕はそう願いつつ、この事件を行く末を追って世界中に配信し続けたい。